昭和58年9月29日 教祖生誕祭
(本日は?)皆さん、おめでとうございます。
本年は、教祖の神様、お国替えになられまして、ちょうど百年にあたります。ご本部ではこの26日から、来月の16日までご大祭が続きます。
教祖様が、この世にご誕生なさいまして、こうした、またとない有り難いお道を開いてくださった。今日の、私ども、まぁ私どもというよりも、私があります。
今まで発表されなかった、教祖様のみ教えの全部が、今度、新教典として発表されて、金光教の聖典として頂けることになりましたが、毎日それを少しづつ読んでもらっております。
教祖様もやはり、生神とまで、天地の親神様から讃えられ、ご神徳を受けられたお方でございますけれども、やっぱり亡くなられるまで、私どもと変わらない様々な、暑い寒いはもちろん、体の上にも様々なお病気をなさったり、または人間関係においては子供さん方やら、親戚の方たちやらの上に、色んな問題が沢山あった模様でございますけれども、その一言一言をご神意のまにまにお受けなされて行かれました。
それが、今私どもがそのことをわからせて頂いて、これは、教祖様と私、または私どもとなにか、近信感と申しましょうか、身近に教祖様を感じることの出来れる思いがいたしております。
ただどういう場合であっても、神様の仰せ通りに仕りますと仰った、そのことを行じ貫かれておられるというところが、普通人と違うところであると思いますが、私どももその教祖様の生きられ方を、それを神習わせて頂くことによって、不思議な不思議な働き、不思議な不思議な天地との交流、つながりを感じることの出来れるおかげを頂いております。最近では、親子の断絶といったような言葉をよく聞きますけれども、親子であって断絶、夫婦であって仲が悪い、親子の仲がしっとりといかない。
今、私毎日、途中からでしたけれども、テレビに「おしん」というのがあってます。おしんブームは成る程、評判のドラマであります。
お姑さんとの間の、仲の悪さというか、お姑さんにいじめぬかれておるという、今、佐賀の人だったそうですが、東京に出ていっておるわけですが、なかに、おしんが年をとってからのところの、物語が入っておりますが、おしんの言う言葉の中に、若い時には、いうならばお姑さんにいじめぬかれて、いじめなれねばならないような元が自分にあったということを悟っておるけれども、なら、今日でも、今度は息子の嫁さんから、なんとはなしにいらん者扱いにされておる自分というものを言っておりますが。
嫁子の時は、お姑との仲が悪い。年をとって、お金も貯まり、お商売の一つも立派にできるようになって、子供に譲った、安気安穏かというとそうではなくて、嫁からいらん者扱いにされておる自分というような場面を見せて頂いて、これではもう本当にこの世に出てきた人間が、本当にこの世は、苦の世だ苦の世界だ、にしてしまっておることになります。
教祖様はそういう、苦の世、苦の世界というような現実の中にあっても、それを有り難い、勿体無い、畏れ多きでお受けになられていく手立てを、私どもに教えて下さいました。どういう中にあっても、有り難い。どういう中にあっても、中身は勿体無いという生き方があるんだ。
しかもそれは、その気になれば、誰でもが頂けれる手立てを、ご自身体験なされ、それを天地の親神様からのお伝えを、そのままいわゆる教祖の信仰体験が教えてなっておるのでございます。
それは、なら生神とも、天地の親神様から、此の方天地と同根とまで言われる程に、またこの方があって、神が世に出たとまだ言われるほどしの教祖生神金光大神様だから、とても凡人私どもでは、手の届かない境地であると思いますけれども、そういう有り難い境地に、その気になればその日から、一歩一歩それに近づいて行けれる手立てが、みやすう説かれてある。
例えば、信心といえば修行はつきものですけれども、過去の宗教ではそこに、とても人間業では出来ない、火の行水の行、いやもっと酷い修行でもしなければ、そういう境地には入っていかれないと思っておりました。これは私も、とてもそんな真似は出来ないと思うておりましたけれども、実際おかげを頂いてみて、本当にどこを切っても有り難い、どこを切っても勿体無い、畏れ多いという心が頂けれるんだということを私が実証して、合楽のご縁のある限りの方たちに聞いて頂き、または実際おかげを受けておる様を見て頂いて、皆さんにお伝えをしておる訳でございますが、本当です。
私の婆は93歳で亡くなりましたが、非常に私、婆に可愛がられて、いつも、毎日一緒にお風呂に入っておりましたが、お風呂の中で「あー極楽、極楽」って言ったのが耳に残っております。
誰でも、暑い寒いの時にお布団どん入って「あー地獄」という者は無いでしょう。誰でも「あー極楽」と思うでしょう。これは誰しも思う、感じることですけれども、なら、お風呂に入ったり、美味しいものを頂いたりすることが極楽、百味御食が出来るから極楽というのではなくて、ではない反対のことの場合であっても、暑かっても寒かっても有り難い、勿体無い、畏れ多いと真実思えたら、それが私はお釈迦様が説かれた極楽の世界の、もう一つ向こうにある合楽の世界だと思うのです。
合楽の世界というのは、ここの当地の村名が合楽と申しますけれども、私はこの合楽の地に参りまして、その合楽という言葉の響きも素晴らしいことながら、合楽し合える世界、極楽世界のもう一つ向こうにある世界、そういう世界に住めれるということを、日日実験させて頂いております。
私は、今毎日、一日おきに久留米の古賀病院に通わせて頂いて、6時間からの治療を受けて、透析の治療に参っておりますが、これを一生涯続けなきゃならんちゃ、もうなんちいう情けないことじゃろうか、と皆思うだろう。
ところが、嘘でも無からなければ、なんでもありません、本当に一日おきにまいります、病院での治療の時間は、もう、有難うして有難うして、どこからこの有り難いが生まれてくるのでだろうかと思うくらいに、有り難いのです、でなかったら、勿体無いんです。または畏れ多い思いで過ごさせて頂いておりますが。
こういう世界にお導きを頂いた教え、教祖金光大神の生きられ方を、とても私どもではと思っておったけれども、それを生活の上に頂いて、守らせて頂いておりましたら、いつの間にかそのような有り難い心の状態が開けてまいりまして、私の話を聞いて下さって、皆さんが助かって下さるという、なんとも有り難い日日を過ごさせて頂いております。
お風呂の中だけが極楽ではない、ではない反対と思われるような中にあっても、有り難いな、勿体無いなという心。そういう心に人間の幸せの様々な条件も足ろうてきて、いよいよ勿体無いおかげを頂いております。
この世というところは、もう苦の世だ、苦の世界だ、それこそドラマにでるおしんは、まぁ極端な(?)面白いように書かれたものでしょうけれども、多かれ少なかれ、大体そういう生活をしておる人が多いのではないでしょうか、一見はお金もあるし、物もあるしいうならば、円満に行っておるようであるけれども、心のどこかに断絶的な、または不平不足を感じておる人たちが多いのじゃないでしょうか。
教祖様があぁいう有り難いご生涯をおわられ、有り難い道をこうして残してくださったというその元はどこにあったかと思いますと、私はいつも天地との合楽の世界があったからだと思います。天地との交流です。
この天地との交流というのは、信心があろうがなかろうが、生きとし生けるもの、人間の誰しもが、そのご恩恵を受けておるのでございますけれども、そのご恩恵をご恩恵と悟らず、または、交流の実験を体験して行かないところから、有り難い世界を、苦の世、苦の世界にしておるように思うのです。
天地との交流。それが、どういうことなのか。結局、天地の心を心としての生き方であります。皆さん、天地との交流が出来るようになると、どういうことになるか。天地が自由になって下さる。まぁ、例えて申しますと、昨日はあのように台風で、(?)をいたしまして、小学校や、学校なんかでも休校するという程しの情報がラジオ・テレビで伝えられました。ところが、おかげで急に台風の角度が変わって、おかげでここら辺りの地方は平穏、今日はまたこういう爽やかな、秋日和を迎えさせて頂いておりますわけですけれども、私はいつもこれを感じるんです。
私の思うところ、私の願うところ、確かに天地が自由になって下さってあるな。私のために天地が動いておって下さってあるかのような思いがいたしますのは、日日天地との交流の明け暮れだからじゃないかと思います。
というて私が、特別な修行をしておるわけではないのですけれども、ただ、教祖様が教えて下さったみ教えを頂き、それを守らせて頂いておるからだと思うのです。
例えば、天地日月の心と仰せられますから、まぁ天地の心。地の心。土の心。いうなら、黙って治めるというような生き方をだんだん身につけさせて頂いて、おかげを頂いてまいりましたら、自分でももう、これは日夜のことですけれども、いつも神様のお心が私の心に通うて来る。まぁ、いうならば神様といつもお話し合いが出来ておるような実感をいたしております。
こういう心の状態が開けてくるのは、人の真似の出来んような修行をしたからという訳でもなんでもない。当たり前のこと、ただ教祖様の教えて下さったことを、ただ日日守らせて頂いておるだけでございますから。こういう気持ちに誰でもがなれたら、どんなに世の中が平和な素晴らしい、いつもが極楽の向こうの合楽世界に住むことが出来るのにと思うて、皆さんにお話をするのですけれども、なかなか縁がなからなければ出来ませんこと。
こうして私皆さんとのご神縁を縁として、本気で教えを頂く気になり。本気で教えを守らせて頂くことになりましたら、天地との交流が可能になって、本当にそれこそこの世を、苦の世、苦の世界ではなくて、合楽の世界にしていくことが出来ます。
この度、教祖百年の記念祭に合楽からも千人参りを企画しておりました。先だってから、600名ほど出来たという事を聞いておりましたら、先日、昨日一昨日、若先生がまいりまして、おかげでばたばた千百名からの一列車を、合楽で借り切ってご参拝が出来るというほどしのおかげを頂いたというのでございます。
教祖様のお言葉の中に、一人がおかげを受けたために、千人も万人もの者が助かるようになるから、人の手本になるような信心をせよ、と教えられてありますが、本当に私一人が只今申しましたような有り難いおかげの世界に住むことになりましたら、合楽から千人もの団体で岡山、金光のご本部参拝が出来るということは、なんと有り難いことだろうかと、思うております。
7日のご大祭を、皆さんもおそらく皆お参りになる方ばかりだと思いますけれども、そういう世界を現して行けれるということが、取りも直さず教祖の神様のお喜びであり、天地の親神様のお喜びであると思うのです。
皆さんどうぞ、皆さんの助かりが、家族の助かりともなり、または縁ある限りの人たちの助かりになって、一人でも多くの人が真実、合楽世界。私どもが聞いてきた極楽世界のもう一つ向こうにある合楽世界、それは私どもがお風呂の中で、あー極楽という世界のもう一つ向こうにある。
それは暑い寒い、普通から言ったら苦しい、そういう中にあっても中身は有り難い、勿体無い、畏れ多いという心の状態で過ごせれる世界、いわゆる神様と合楽し合える世界。神様と拝み合える世界。神様と頼み合える世界。神も喜び、氏子も喜べるという世界。そういう世界を、教祖金光大神がお開き下さった。そういう世界に住まわせて頂いて、金光大神の喜びということになると思うのです。
教祖様のご生誕をお祝いする。神様、金光様、あなたのおかげこういう世界に住むことが出来ましたとお礼を申し上げれれる世界に住んで初めて、教祖金光大神が喜んで下さるということになるのでは無いでしょうか。
皆さんいよいよ日日を、いよいよ有り難い、勿体無い、畏れ多きの世界にして行きたいと思います。それには、もう人の真似の出来ん精進をしなければというではありません。もう本当に、今日から、只今からでも教祖のみ教えを自分の生活の上に頂き、現して行こうと一心発起することです。
そこから、そういう有り難い世界が開けてくるのです。その有り難い世界を、本当に全世界に広げて行きたい。とてもそれは、夢のような勿論話ですけれども、やはりそれを、千里の道もやはり一歩から、まずは私の心の中から開いて行こう。この世をいよいよ合楽世界にして行こうという願いを、お互いが持たせて頂きましたら、教祖金光様のお喜びは勿論天地の親神様の願いに、御神願に応えることが出来るのですから、そういう信心世界をいよいよ広めていかねばなりません。また、広めて行きたいと思います。
今日は、合楽の恒例になりました。70歳をお迎えになられた方たちの、ご神縁のある限りの方たちを、今日のお祭りをともに頂いて、第二部には福引やら、または今日は大変名人の浪曲の師匠が見えるそうでございますので、また午後からも共々に喜ばせて頂きたいと思います。どうぞ、よろしくお願い致します。